6月3日の朝、驚きとともに飛び込んできた訃報がありました。
プロ野球界を象徴する存在、巨人軍の終身名誉監督・長嶋茂雄さんが亡くなったとのこと。
ニュースを目にした瞬間、昭和から令和に続く時代の大きな区切りを感じました。
この記事では、長嶋さんの華々しい学歴や経歴、そして今回の死因について、じっくり振り返ってみたいと思います。
長嶋茂雄の学歴
千葉県佐倉市で生まれた長嶋茂雄さん。
地元では活発で明るい少年だったそうで、地域の人たちにとっても誇りのような存在だったと聞きます。
佐倉第一小学校
最初の学び舎は地元の佐倉第一小学校。
ここで、野球と出会うわけですが、当時の佐倉はまだ野球が盛んな地域というわけではなかったそうです。
グラブは兄の借り物、バットも木の枝を削ったようなもの。
それでも夢中になれるって、やっぱり特別な子だったんだと思います。
自分の小学生時代を思い出すと、ただ球を追いかけるだけで満足していた自分とはまるで違って、どこか“勝ちたい”とか“うまくなりたい”という意志がすでにあったんでしょうね。
きっと本人にも自覚があったんじゃないかな。
佐倉中学から佐倉一高、そして立教大学へ
中学、高校と進学してもその情熱は冷めることなく、特に佐倉一高(現・佐倉高校)時代には千葉県内でも名の知れたスラッガーに。受験も野球も全力で取り組んでいたそうです。
進学先として選んだのは東京六大学のひとつ、立教大学。学業もおろそかにせず、野球部では4番を務めるという凄まじさ。
当時の東京六大学リーグでは、強豪投手たちがゴロゴロいたにもかかわらず、本塁打を数多く打ち込んだという記録が残っています。
大学野球を経てプロ入りした選手はたくさんいますが、ここまで大学野球界にインパクトを残した人は少ないでしょう。
自分も大学時代に観戦したことがありますが、あの神宮球場の雰囲気、学生たちの熱気の中に立っていた長嶋さんの姿を想像すると、なんだか誇らしい気持ちになります。
長嶋茂雄の経歴
立教大学から巨人軍へ。
1958年にドラフト制度がまだなかった時代、鳴り物入りで読売ジャイアンツに入団しました。
その瞬間から、日本のプロ野球は変わり始めたのかもしれません。
デビュー戦は衝撃の4三振だった
プロ入り初戦、相手は伝説のピッチャー・金田正一。
その試合でまさかの4打席連続三振というデビューでした。
今なら「やっぱりダメだったかも…」と思ってもおかしくない流れですが、その後に巻き返すのが“ミスター”のすごさです。
ルーキーイヤーから打率3割5厘、29本塁打、92打点と、まさに期待を超える成績を残して新人王を受賞。
2年目にはあの「天覧試合」で阪神の村山実から放ったサヨナラ本塁打。
ここから国民的スターへの階段を一気に駆け上がりました。
自分の親もこの試合のことを話してくれたことがあります。
「テレビの前で家族みんなが立ち上がった」って。
そんな経験ができるって、なんだかうらやましいですよね。
数々のタイトルと“ONコンビ”の伝説
通算成績は打率.305、2471安打、444本塁打、1522打点。
首位打者6回、本塁打王2回、打点王5回と、野球に詳しくなくても「すごい!」と感じる数字のオンパレードです。
そして、忘れてはいけないのが王貞治さんとの「ONコンビ」。
このふたりの存在があるからこそ、ジャイアンツ=強いというイメージが根づいたように感じます。
当時の映像を見ても、プレーだけでなく、立ち居振る舞い、ファンとの接し方、すべてにスター性がにじみ出ているんですよね。
まさに“ミスタープロ野球”という肩書きがぴったりの人でした。
長嶋茂雄の死因と晩年の様子
2025年6月3日、東京都内の病院で息を引き取ったというニュースに、正直、言葉を失いました。死因は肺炎。
ここ数年はリハビリを続けながらも、たびたび東京ドームに足を運ぶ姿が見られていました。
脳梗塞を乗り越えてリハビリ生活へ
2004年、アテネ五輪代表監督に就任した矢先、脳梗塞で倒れ緊急入院。
歩行や会話にも困難を抱えることとなり、そこからは懸命なリハビリの日々が続きました。
一時は「もう人前に出ることはないかも」と思われましたが、2013年には松井秀喜さんとともに国民栄誉賞を受賞。
あの時の笑顔は、忘れられません。
少しゆっくりな動作、でも確かに伝わってくる熱意と情熱。
会場全体が胸を熱くしていたのを今でも覚えています。
最期まで野球とともに生きた人生
晩年はセコムのCMや、ドジャース戦の始球式に顔を出すなど、メディアにも時折登場していました。
そのたびにファンは「また姿を見られてうれしい」と心を動かされていたはずです。
2022年には自宅で転倒し脳内出血というニュースもありましたが、懸命に治療を続け、東京ドームで愛弟子・阿部慎之助監督を激励する姿が報じられたこともありました。
まさに、最後の最後まで野球に情熱を燃やし続けていたんですね。
個人的には、大谷翔平選手とのツーショットが話題になったのも記憶に新しいです。
若いスターに寄り添いながらも、堂々とした存在感を放っていたのが印象的でした。
まとめ
昭和、平成、そして令和へと時代が移り変わる中で、変わらず日本人の心に存在していた人物。
それが長嶋茂雄さんでした。
単なる野球選手、監督という枠では収まらない、文化そのもののような存在だったのかもしれません。
ニュースで「89歳で死去」と聞くと、一瞬時の流れを感じますが、それ以上に「野球を、人生を楽しむ姿勢」を教えてもらったような気がして、感謝の気持ちでいっぱいになります。
これからも野球が好きな限り、ふとした瞬間に「ミスター」の記憶がよみがえることがあるでしょう。
東京ドームの風景の中に、立教大学のユニフォームの中に、そして少年たちが野球を楽しむ姿の中に――。
ありがとう長嶋茂雄さん。あなたがいてくれたから、日本の野球はこんなに魅力的だったんだと心から思います。
コメント