江戸から明治にかけて、日本の科学に大きな足跡を残した人物といえば、伊藤圭介の名前を外すわけにはいきません。
理科の授業で習った「雄しべ」や「雌しべ」という言葉を作った人だと知ったとき、思わず「えっ、そんな人がいたんだ」と驚いた記憶があります。
そんな伊藤圭介について、学歴や経歴、そして子孫に関することまで、気になる情報をまとめてみました。
伊藤圭介の学歴は?
学校教育というより、師について学ぶスタイルが主流だった時代に育った人物だけに、今の「学歴」とは少し異なります。
ただ、それでも当時としては非常に先進的な学び方をしていたことが伝わってきます。
伊藤圭介は1803年、名古屋の町医者の家に生まれました。
幼い頃から学問に親しみ、町医としての資格を20代前半で得ています。
文政3年(1820年)に医業を始めたというから、まさに若くして専門家として歩み始めたことになります。
その後、京都へ遊学し、蘭学者・藤林泰助に師事しました。
この時期に西洋の学問に目を向けたというのは、かなり先進的な選択だったはずです。
さらに長崎へ渡って、あの有名なシーボルトの教えを受けることになります。
これはもう、今で言えば世界的な大学に留学したようなもの。
しかも、シーボルトからは『日本植物誌』を譲り受け、それを自ら翻訳して出版するという実力を発揮しています。
学歴という形では表しにくいものの、その学びの質と深さは、現代の大学教育にも匹敵するほどだったのではないでしょうか。
あの時代に、これだけの学問を自らの足で学び取り、しかも実践に活かしていったというのは、本当にすごいことだと感じます。
伊藤圭介の多彩な経歴と功績
植物学者として有名な印象がありますが、実は伊藤圭介の活動はそれだけにとどまりません。
医学、蘭学、博物学と、さまざまな分野に精通していました。
若い頃は町医として診療にあたっていたものの、学びを続ける中で、次第に研究者としての道へと進んでいきます。
特に注目すべきは、幕府の蕃書調所(ばんしょしらべしょ)で物産調査の役職に就いたことです。
これは当時の日本における「科学官僚」とも言える立場。今の研究機関や博物館での仕事と似ている部分があるかもしれません。
また、尾張藩からは種痘法の調査も命じられていて、医学的な側面でも貢献しています。
感染症予防に向けた取り組みを行っていたというのは、時代を先取りしていたとも言えそうです。
明治時代になると東京に移り、大学に出仕。その後は文部省での仕事を経て、東京大学の教授にも任命されました。
しかも、1888年には日本初の理学博士の一人として学位を授与されています。
この事実からも、日本の近代科学の礎を築いた存在だったことがわかりますね。
晩年には東京帝国大学名誉教授の称号とともに、男爵の位を授かっています。
学問と誠実な仕事が認められ、身分制度の中でもしっかりと評価されたことが伝わってきます。
シーボルトとの出会いが人生を変えた
人生において、たった一度の出会いが大きな転機になることがあります。
伊藤圭介にとって、シーボルトとの出会いがまさにそれでした。
長崎で出会ったシーボルトから、直接本草学を学んだ経験が、伊藤圭介の研究の方向性を決定づけたのは間違いありません。
さらに言えば、植物学の分野で世界に目を向ける視野を得たのも、この出会いがあったからこそでしょう。
現代の私たちも、人生の中で誰と出会うかで進む道が変わることがあると実感します。
たとえば自分も、ある講演会で話を聞いた研究者の言葉に感銘を受けて、その後の進路を決めたことがあります。
植物に対する深い愛情が言葉を生んだ
「雄しべ」「雌しべ」「花粉」といった用語を、日本語として定着させたことも忘れてはいけません。
これらは単なる翻訳ではなく、植物の生態を的確に表現するための新しい言葉でした。
普段何気なく使っている言葉の背景に、そんな努力や工夫があることを知ると、ちょっと感動しますよね。
植物に対する深い観察力と愛情がなければ、あのような表現は生まれなかったでしょう。
たとえばベランダの鉢植えを観察していて、「この花の雄しべ、なんだかかわいいな」と思ったときに、ふと伊藤圭介の名前がよぎったりします。
言葉は記号ではなく、生きた感覚とつながっているのだなあと改めて感じます。
伊藤圭介の子孫
伊藤圭介の子孫について調べると、特に有名なのが孫の伊藤篤太郎(いとう とくたろう)です。
篤太郎は圭介の植物学の志を継いだ人物として知られ、日本の植物分類学の発展にも貢献しました。
以下に、伊藤圭介の子孫にあたる主な人物をわかりやすく紹介します。
伊藤篤太郎
伊藤篤太郎は、1866年に尾張国(現在の愛知県)で生まれました。
祖父の圭介と同じく植物学を志し、若い頃から植物の観察や分類に熱心だったようです。
篤太郎は、1884年にイギリス・ケンブリッジ大学に私費で留学しており、当時としては非常に先進的な経験をしています。
彼の代表的な業績には、沖縄植物の調査研究や、松村任三との共著『琉球植物説』(1899年)などがあります。
これは、まだ沖縄の植物相がよく知られていなかった時代において、貴重な資料として高く評価されました。
また、1900年代には東北帝国大学でも講師を務め、教育者としても活動していました。
晩年には、祖父・圭介が残した資料の整理や回想などにも力を入れていたそうです。
岩津都希雄(いわつ ときお)
篤太郎の妹・順子の息子で、篤太郎の甥にあたります。
著書『伊藤篤太郎 初めて植物に学名を与えた日本人』(2016年、八坂書房)を執筆し、篤太郎の業績を後世に伝える役割を果たしました。
研究者というよりは、家族の歴史を掘り起こす立場で活動した人物です。
個人的にはこの本を読んだ時、「家族の記憶がこんな風に本になるって素敵だな」と思いました。
伊藤家のように、代々知の系譜をつないでいく家って、今ではなかなか貴重かもしれません。
その他の家族・子孫たち
伊藤篤太郎の家系は、教育・医学・行政など様々な分野に広がっており、以下のような人たちもいました。
- 長男・圭彦(1904年生まれ):35歳で病死
- 二男・梅松(1908年生まれ):北海道帝国大学農学部卒、農林省に勤務
- 妹・睦子:長崎医科大学教授・田代豊助に嫁ぐ
- 妹・圭子:九州帝国大学医学部教授・小川政修に嫁ぐ
- 弟・中野功次郎:北海道・樺太で郵便局長を務め、孤児院活動も行った人物
このあたりを見ても、学問や公共事業に関わる人物が多い家系だと感じます。
私もこの記事を書きながら「自分の家系にも何かそういう精神が流れていたらいいのに…」とちょっと羨ましくなってしまいました。
伊藤家に受け継がれたもの
伊藤圭介から篤太郎、そしてその後の子孫たちへと受け継がれたのは、植物学という専門分野だけではありませんでした。
学ぶことへの情熱、人のために知を役立てる姿勢、そして何よりも「知的好奇心」がずっと息づいていたように感じます。
もちろん、時代が変われば生き方も変わります。
篤太郎自身も定職を離れた時期が長かったそうですが、それでも論文や講演、植物に関する研究は生涯続けていたようです。
そんな姿に、現代のわたしたちが学べることは多いのではないでしょうか。
まとめ
伊藤圭介の人生を辿ってみると、学ぶことの面白さや、自分の目で確かめて理解する姿勢の大切さを、改めて教えてもらったように思います。
そして、どんなに時代が変わっても、真摯に学問に向き合う人の姿は人の心を打つものです。
きっとこれからも、多くの人が伊藤圭介の歩みから刺激を受けることでしょう。
学歴、経歴、子孫まで調べてみると、「へぇ、こんな人がいたんだ」と感じるだけでなく、「自分も何かできるかも」と勇気づけられる気がします。
そんな魅力を持った人物こそ、語り継ぐ価値があるのではないでしょうか。
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